徳川 慶喜
『徳川 慶喜』(とくがわ よしのぶ)とは、江戸幕府第15代征夷大将軍である。江戸時代後期に黒船が来航し、外交問題が急務となったため将軍後継問題が浮上。慶喜も候補に上がるが、大老職となった井伊直弼の断行で紀州徳川家の徳川慶福が次期将軍になったのである。その後慶喜は「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれる改革を行う。内容としては、大名の参勤交代を三年に一度に改めたり、洋学研究を後押しし、蕃書調所を洋書調所と改めた。更に、榎本武揚・西周らをオランダ留学へ派遣。西洋に関心深い反面、「生麦事件」(なまむぎじけん)と呼ばれる、1862年に薩摩藩主が江戸から京都に向かう途中、生麦村で横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま横切ったことに腹を立て、斬りかかり1人を死亡、2人を負傷させた事件の賠償金の件で老中が支払うことを黙認したと言われている。1866年に家茂が死去すると慶喜は15代将軍に即位した。1913年に肺炎で死去。享年77歳であった。晩年は狩猟、写真撮影などの趣味を楽しみ悠々自適な生活を送った。