岩倉具視
『岩倉具視』(いわくらともみ)とは、江戸時代の幕末から明治前期の明治維新の頃に活躍した公家である。1825年に堀河康親の次男として京都に生まれ、1838年に岩倉具康の養子となる。1854年に孝明天皇の侍従となり、1858年、日米修好通商条約の反対派の公家を集め「廷臣八十八卿列参事件」(ていしんはちじゅうはちきょうれつざじけん)と呼ばれる、阻止行動を起こした。井伊直弼が暗殺された後、公家の伝統的権威と、武家を結びつけて幕府権力の再構築をはかろうとした政策により、岩倉具視は尊王攘夷派たちによって朝廷に圧力をかけられ、その座を退けさせられようとしていた。そのため、岩倉は京都市の霊源寺にて出家し、苔寺で知られる「西芳寺」 (さいほうじ)に身を置いたが、後に京都洛北の岩倉村に世俗を逃れて心静かに暮らすこととなる。しかし、その後も薩摩藩の同志に意見書などを送り、孝明天皇の死の際には首謀者として疑われるなど、その暮らしぶりはひっそりしたものとは言えなかっただろう。